死んだらどうなるんだろう
「小さい頃、やけに唐突に”死”について考えたことなかった?」
先日、友人と飲んでいてこの話で盛り上がった。病んでるとかじゃなく、本当に突然に。
もしかしたら、僕らの他にも小さい頃、なぜだか突然「死んだらどうなるの?」という考えが頭をよぎった人がいるかもしれない。
僕の場合は、
小3か小4くらいの夏休みのある日、いつものように学校の水泳教室から帰って、そうめんを食べながら1人で家の窓の外を見つめていた時に、
「僕って誰だ?死んだらどうなるんだろう」
と思ったことを今でも忘れない。
あの感覚はなんだったのだろう。
当時は、記憶の限りだといじめられたり、苦しいことがあったりして病んでいたわけでもなかったはず。
それなのに、急に、、
友人もらしい。
誰しも人は、哲学者になる時期が来るのだろうか。
https://www.google.co.jp/amp/gigazine.net/amp/20160303-what-happens-death
こういった文章を当時の僕が読んだらスッキリしたのだろうか。
永遠の謎である。
失敗
失敗は、成功への礎になるって信じてる。
だけど、この言葉は時に綺麗事のように感じる。
http://m.huffpost.com/jp/entry/17596260
僕は、現在就職活動をしている。
もちろん選考によっては、うまく行ったり行かなかったりする。
自分が行きたいと望む会社に落ちた時、それは一種の失敗ということができるだろう。
しかし、この失敗は、
反省を踏まえて自分を見つめ直したり、所作振る舞いに気を配れば後々の糧になる経験だ。
失敗が最高の礎になるいいエピソードだと思う。
失敗が成功への礎になる
が時に綺麗事に感じてしまうのは、
失敗した人に対してのレッテル貼がしばしば行われるからだ。法を犯すなどの失敗をしたら、庇いきれない部分もややあるのだが。
もちろん、失敗の種類にはよるのだろうが、
よくない行いをした人に対して、
「あいつは、ああゆう人間」
と思い込む節が、僕も含めて多くの人が持つイメージがある。
その思い込みは、時に、その人に再起のチャンスすら与えずにある意味殺してしまっている気がする。
具体的な事例としての僕の経験談は、長くなるので割愛するが、
失敗して学んでいくスタイル
というものを過信しすぎると、何か大きなものを失いかねない気もする。
失敗した人を受け入れるか受け入れないかの多様性も加味して、物事への挑戦には、やや慎重になる必要があるのかもしれない。
既読先行返信後攻型
あ、、既読スルーされた!!!
気になる人が、出来るってことは
素敵なんだろうけど、
その度に、相手の顔が見えねえSNSごときで
一喜一憂させられる自分の小ささと、
既読をして、だいぶだった後で返事を書いてくれるその人。
もしや、めっちゃ返事考えてるんじゃねえかという期待感
終わったわ、どんまい自分
ゲームセットを待たず白旗を上げる自分。
その両者が複雑に絡み合う、宵の刻に送られる返事は、大抵中途半端に雑。
…なぜ返す?
その度に試される(気がする)男としての器量。
相手はきっと、デルピエロ。
常に惑わしてくる。
そんなことさえも、なんだか楽しい片思い。
こんな文面を書いているのに、別に恋なんてしてない俺もまたデルピエロ🤡
祝うなら
僕は、手紙が好きだ。
今もちょくちょく年賀状を紙で書くくらい、手紙が好きだ。
液晶画面越しなら、鼻くそをほじりながらでも大好きだ、愛してるなんて臭いセリフを言えるけど、紙に向かって書く時は少なくとも、文字を刻むことに神経を使って思いが乗り移る。
僕が22歳になってから、およそ1週間経つのでそろそろいいだろうと思って書く。
おめでとう!
のメッセージ、これは嬉しい。
あ、覚えてくれてたんや。祝ってくれるんや。
それだけでルンルンする。
ただ、実は本音がある。
”もう一言ほしいな”
って。
おめでとうに、もう一言あれば、嬉しい。
ワガママな主張である。
それは分かっている。
ただ、年賀状でもそうなのだが、
あけましておめでとうだけのハガキだとなんだか寂しい。
必要なのは、定型文と少しの優しさ
…何もないよりはいいのだろうけど、どうせ送るのなら相手にとってより嬉しいものを送りたい。
祝い事
早いもので22歳を迎えた。
ここまで健康体で過ごせたことは、”奇跡”だし”感謝”の積み重ねでしか表現できない喜びに感じる。
たまに、なんで自分は生まれてしまったんだろうという自己嫌悪に陥ることがある。
僕は、無価値で誰のことさえも幸せにすることができないような虚無感。
しかし、僕はだんだん大人になっていく。
その中で、ある種の社会的責任感といえば聞こえはいいが、生きていく意味や価値というものを、昔よりは感覚として掴めている予感がする。
きっと、この1年も悩んだり凹んだり、飛び上がって嬉しがったり、怒ったりするのだろう。
うるさいと叱られ、邪魔だと罵られ、お前といると楽しいと言われるかもしれない。
何があるか分からない22歳を楽しもう。
成長
「成長」ってなんですか?
就職活動中に、よく聞かれる質問だ。
僕は、これが誰でも簡単に答えられる質問な気がする。
「潜在的な引き出しを増やす」
「できないことができるようになる」
「考え方の尺度に幅がもてる」
例えば上のどれか一つに、自分なりの体験談を盛り込めたら、それっぽい答えになる気がする。
成長したと認められることは難しいけれど、口にすることは簡単だ。
切符で改札をくぐる際、子ども用だと「ピヨピヨ」と音がする。たしか、小6まで有効だったはずだ。
先日、地元の最寄り駅でNのロゴのリュックを背負った少年を見送りながら、中学校時代のことを思い出した。
今日から切符が大人料金…
そのことを誇りに思う反面、交通費が嵩むことへの不満。
子供に戻りたいなあって考えていた14歳を思い出す。
だいたい10年が経った。
そんな切符一つで過去を羨み、今を疑うことはもうなくなった。
成長したのだろうか。精神的に、少しは成熟したのだろうか。今を受け止められるようになったのだろうか。
できなかったことができるようになる。
…僕は成長したのだろうか。
できなかったことができるようになった今、僕はなぜだか劣化したような気がした。
純粋さを失ったというか…
上手に言い表せないけれど、
人は成長する。身体も心も。
ただ、その間に何か失う。
その失ったものを肥料に、人は成長するのではないか。
冒頭にある写真は、パスポートの更新にあたり撮影した今と5年前の僕。
できるようになったことも増えたけど忘れたこともあるはずだ。
成長
容易に言い表すのは難しいと感じた。
仮面
就職活動をしているお前はつまらない。
先日、飲み会で言われた言葉が久しぶりに胸をえぐった。
なかなか独特の言葉を吐く先生もいたものである。どうしたら”僕”は、おもしろいのか、そもそも貴方は満足なのか。
僕の進む道くらい僕に決めさせてくれ
だなんて、青春群像的な青臭いセリフを吐いてみたいけど、やりたくて就職活動に励んでいるかと問えば必ずしもそうではないような気もする。
考えることにも飽きたし、今は現実を真剣に考えるべき時期に感じるのだが、焦燥感が占有するのみで、具体的になにをするでもなく僕は一人きりお気に入りの屋上で寝転がって、柄にもなく三島由紀夫を読んでいる。
仮面
読みながら考えたことがある。
大学生のどれくらいが被っているのだろう。
猫をかぶる女子学生の表の顔も仮面だろうし、言葉巧みにワンナイトラブを繰り返すどこかの誰かが飲みの席で、下心をひた隠しながらお酒を飲み干させる顔も仮面だとしたら。
逆を返せば、僕たちが生きているこの世界は仮面を被らないと困る場面の多い世界なのかもしれない。
屋上で寝転んでいられるうちは、猫も仮面も化けの皮も被らなくても平和でいられる気がする。